Noblesse Oblige Presents
12 January 2001
20 September 2001 修整
旅行記「ロマンティカーの逍遥 II」から一部抜粋、多少手を加えたもの。旅行記に関する詳細はこちら |
第3日 1996年6月17日(火)
アーヘン→ブリュッセル→ワーテルロー→ブリュッセル ワーテルローで日本人夫妻のにわかガイドと化したことと、幻のブリュッセル駅を求めてさまよい歩いた顛末 |
アーヘンからブリュッセルへ
6:00に起床。TVをつけると、BBCニュースを繰り返し流している。日本付近の天気は台風が来ていたらしく「violent」だそうだ。
7:00頃駅に向かった。絵葉書を投函し、家に電話を入れたら留守電だったので伝言を残す。今日でドイツを出ると言うのに6月に買ったテレホンカードを今回もまた使い切らなかった。まあ良い。次に来た時に使おう。 (後日談。この時に残したメッセージは何故かその後長い間電話に残っていて、留守録ほ操作するたびに聞く羽目になった。誰も消去の方法を知らないのだった…。) 前回で懲りていたので、早々に会社へのお土産を買うことにした。駅のスーパーでチョコレートなど全部で81.07DM(ドイツマルク、当時のレートで1ドイツマルクは73.67円)。ここでものすごーく変な顔をしたぺンギンのマスコット(2DM)を買った。これ、沢良宜晰氏へのお土産。更に駅内の本屋で絵葉書とハルツ地方の大型のガイドブック(14.80DM)を買う。これも次に行く時の為。旅はまだ始まったばかりだと言うのに、着実に荷物は重量を増しつつあった。 宿に戻り、朝食にする。平日のせいか他に宿泊客はあまりいないようだ。丸型パン2個、ハム2枚とチーズ、オレンジジュース、コーヒー、ジャム、チョコクリームと蜂蜜。ドイツの食事にしてはやや質素だ。 チェックアウトの時に、昨夜電話を使ったと言ったが、計上されてないとの返事だった。目的のところには繋がらなかったけれど、誰が出たのは確かだった。内線に通じたのかも知れない。 ふと見ると、カウンターの内側に、昨日なくした市街図のコピーが置いてあった。そうか、チェックイン時に置き忘れたのだ。これ、私のだから、と言って返して貰った。考えれば、今頃見付けても役に立たないのだが。いつもは町を出る時に処分するこのコピー、この時はなくしものを見付けたとの感傷から、捨てもせずそのまま持ち帰り、結局これを書いている今もその辺りに散らばっている。私の部屋が片付かぬ理由のひとつがここにある。 9:05の列車に乗る為に駅に急いだ。殆ど駆け込みに近い慌ただしさだ。駅舎の写真を撮って、カメラの電池が切れかかっていることに気付いた。今まで、海外旅行の度に予備の電池は忘れずに携帯していた。その時には出番がなく、たまたま忘れた今回に限って電池が切れるとは。まあ、世の中、そんなものなのだ。 列車は一目見るなり、ドイツ式と違うのがわかった。向かい合わせ4席のシートは大変座り心地が良い。大きなテーブルが付いている。ひとつの車両を硝子のドアで禁煙席と喫煙席に区切っているのも珍しい。新しくてきれいな車両だったが、所要時間から見て、特急ではなく普通列車だったと思う。 発車後すぐに検札が来た。「GutenMorgenBonjour!(グーテンモルゲンボンジュール!)と一息で言ってのけた車掌の恰好はどう見てもフランス風、いやベルギー風と言うべきなのだろう。ドイツの愛想の良さとはどこか違う、ラテン系の愛想の良さ。で、厳密にどこが違うのかと聞かれてもはっきりとは答えられないけどな。 辺りはまだドイツの筈だ。緑の草地の広々とした風景が続く。鉄橋。 9:15頃、左右になだらかな丘。牧場や農家。耕地が開ける。美しい眺めだ。顔の黒い羊たち。鵞鳥などがすぐ傍らにいる。
9:25頃、緑が一層濃くなった。いつの間にか、辺りには木々の数がぐっと増え、地形もかなり起伏に富んだ感じとなる。森だ。これはアルデンネンの森? では既に国境を越えた? 列車での国境越えはドラマティックだとわくわくして待っていたのに、なーんにも来やしなかった。ちぇっ。おまけにこれではベルギーに入国したと言う証拠はどこにもない。いや、それ以前にフランクフルト空港のスタンプさえ押してないぞ。 9:30頃、Verviers-Central。ここで大勢乗ってきて混み始めた。向かいの空席に女性が座ったので、荷物を上の棚に載せたが、結構重かったのでちょっと腰が痛くなった。まずいことになったかな、と心配したがすぐに直ったので良かった。 線路沿い、すぐ左手に古い立派な教会が見える。川端を牛が好き勝手に歩いている。小川が多く、きれいな景色だが山勝ちの地形の為かトンネルが多いのが玉に傷。やや薄曇りで空の色は少しくすんでいる。 長いトンネルを抜け、徐行し、またトンネル。車内販売が通る。国際列車なので、DMも使えるだろうな、と考えつつ見送る。周囲はすっかりフランス語で鳥の囀りのような賑やかさ。既にここは私の知らない世界である。小川。本当にきれいな景色。だが、難点はトンネルだ。 この列車は窓が開く上、硝子にはずらりと「窓から壜を捨てましょう」マークが続く。これだけ沢山あるのを見ると、このシール、大事なところが色褪せたのではなく、何か違った意味があるのかも知れない。ひょっとして、本当に「壜を捨てましょう」なのか? 9:50頃、Aldenneと言う道路標識を見た。ああ、やはりこの辺りがそうなのだ。 Angleur、左手でプラットフォームを取り崩していた、と思ったら右手では巨大な穴を掘っている。何だろう。車をぎっしりと積んだ列車と立体交差する。不思議な眺めだ。 大きな川を越えた。鉄道橋の右手の橋は彫刻が美しい。大きな町で、大勢人が下りてゆく。向かいの席の白人女性が下りた、と思ったら、今度は黒人女性が座る。 10:00頃、広々とした平地へと出た。 10:10頃、線路脇にどう見ても2m、いや3mはある木が赤い実をびっしりとつけている。随分大きいが、ピラカンサらしい。 Varemme、割と大きな町だが、徐行しただけで通過した。 10:05頃、右手に古い町並と2つの教会が見える。町の名はTienen何とか。良く読めなかった。なかなか魅力的な景色だが、列車はそのまま通過。 突き当たりにトイレがあるので、車両のドアを開けようとしたが、開かない。妙だ。つい今し方、このドアを出入りしている人を見たばかりなのに。仕方がないので戻る。恰好悪いな。 10:35頃、Leuvenに停車。開かなかったドアを開けて、大勢ぞろぞろと乗り込んできたばかりか、今度は開いたままになっている。謎のドアだ。まさか、外側からしか開かない? そんな馬鹿な。(これを書いている今になって気付いたのだが、「押す、または引く」と「引き戸」の違いだったのかも知れない。更に「引き戸」の場合は「押しボタン」併用が多い。) 隣に人が座ったので、席を立ちにくくなってしまった。特にトイレに行きたい訳ではないが、駅に着く前に行っておいた方が良いかな、と思っただけ。 |
ブリュッセルからワーテルローまで 11:00頃、ブリュッセル中央駅(Gare Centrale)の地下に列車は滑り込んだ。その途端、何とも知れぬ異臭が辺りに立ち込める。一言では説明しがたい、どこかで嗅いだような、尚且つ微妙に異なるような、極めて異様な臭いである。 トイレがあったので入ろうとすると番のおばちゃんが出てきた。はいはいお金ね。まだ両替してないのでDMしかないけれど。それでは1DMだと言う。小銭がじゃらじゃらあったのでそれで払おうとしたら、1DM硬貨でないと駄目。やけにうるさい番人だ。ベルギーフラン(BF)は10BFだと皿の上に書いてあった。うるさい上になんて強欲なんだろう。 何だかくたびれた感じの駅だ。地上に出て、構内の両替所で円建てのT/C3万円をBFに替えた。手数料込みで7000BF少しだから、1BF=4.3円程度になる。 すぐ近くにあったコインロッカーに大型の荷物をしまう。今日はワーテルローの町に泊まるつもりだった。 次は鉄道の案内所で明日のユーロスターについて尋ねる。前の人が英語で話していたので、通じるのはわかったが、一応儀礼的に英語で良いかと前置きしてから。(駄目だと言われても仕方がないが)。答えは簡潔だった。切符はそこの窓口の1番と2番で。時刻表の小冊子があるからどうぞ。これは便利と有り難く頂戴する。 さあ次はいよいよワーテルローだ。バスが出ていると聞いていたが、別の窓口で尋ねると、列車が走っていると言う。これは初耳だった。次の列車は11:35。もうすぐだ。往復切符は本日のみ有効とのことだったので、片道切符(95BF)を買い、地下4番の乗場へと急いだ。 列車はブリュッセル南駅(Gare du Midi)に停車後、11:50頃、Linkebeek、11:52頃、Hollekenと進む。既に何だか田舎の駅。 こんな近距離なのに検札が来た。そう言えば、ベルギーの国鉄にもドイツ同様改札がなかった。この辺りに来ると匂いまで田舎だ。この場合は、「臭い」の方か。St.Gean何とか。De Hoekを過ぎると広々とした畑だ。 |
ワーテルローからウェリントン博物館まで
ワーテルロー(Waterloo)は本当に小さい小さい駅だった。丁度時刻は正午頃。しかし、これからどの方向に向かえば良いのだろう? 駅の前には一応大通りと思しき道が伸びている。天気が良いのが幸いだが、辺りには人気がない。 まずは町中にあるウェリントン博物館に向かって道を進み始めたのだが、この当たりの記憶があやふやだ。人に道を尋ねた覚えもなくどんどん進んだところを見ると、博物館の標識でも見たのかも知れない。それとも、小さな町だと聞いて懲りもせず、なめて出たのかも知れない。 晴れて明るい日だが、平日の午前中のせいか町は異様な静けさだ。道をどんどん進むうち、左手に立派な煉瓦造りの家が見えてきた。あれがそうかも知れない、と期待したが、単なる民家だった。前を通過して更に先に進むが、なかなかそれらしい建物はなく、尋ねようにも人の姿もない。 少々不安になってきた時、傍らのテラスハウスの前に車が止まり、ひとりの男性が下りてきた。彼に声をかけて道を尋ねると、妻が英語が話せるから、待っているように、と言って家の中から奥さんを連れてきてくれた。ああ、ウェリントン博物館ね。この道を真っすぐ行ったら教会があるのでその向かいよ。ついでに次の目的地「ライオン像の丘」の行き方を尋ねる。彼女、あれっと言う顔で、「ライオン像の丘だったの? ウェリントン博物館じゃなかったの?」 だからその、最初に博物館に行って、それから丘へ、と説明する。丘はずっと遠くて、歩いては無理。博物館の前からバスが出ているとのことだった。 親切な夫婦と別れ、先へ進む。道が間違ってないので安心したが、やはり距離がある。 ようやく前方の右手に目印の教会が見えてきた。それ程大きくはないが、角地に建っている上、丸くて風変わりな形をしているので良く目立つ。この時は知らなくて素通りしてしまったのが、後で調べるとこの教会、なかなか由緒ある代物で、ワーテルローに関する記念碑も豊富なのだそうだ。 教会が面している四つ辻は交通量の多い道路で、左手がブリュッセルの筈だ。成程、ガイドブックにバスで行くようにと書いてあったのはそういう訳だったのか。なまじ鉄道で来たばかりに、余分な距離を歩くことになった。まあ、その分、ワーテルローの町中を歩く体験も出来た訳だ。だから、何だ?と言われると困るのだけどね。正直な話、私が通った道は1815年当時はきっとまだ畑だったと思う。 |
ウェリントン博物館 Musèe
Wellington 道を挟んで教会と向かい合っているウェリントン博物館(Musèe Wellington)は白っぽい壁の質素な、いや殆ど薄汚れたと言っても良いような建物だった。壁にはワーテルローの会戦に縁の各国の国旗が掲げられている。
すぐ隣が旅行者案内所になっていたので、まずそちらに入った。有名な観光スポットだけあって、何か国語かのガイドがあったが、日本語はリーフレットに印刷された何行かの文字が全て。担当嬢が陽気な人で、日本語の文章を朗読してくれ、と頼まれた。で、求めに応じて読み上げると自分の言葉の響きが何とも奇妙な感じだ。海外を一人旅して思うこと。外国語は一向に覚えないのに、日本語は確実に忘れるのだ。「ワーテルロー」の文字はどこかと尋ねるので指さすと、マーカーで印をつけていた。 ワーテルロー関係5カ所の共通入場券(385BF)を買い、ライオン像行きのバスの乗場を確認する。バスは博物館のすぐ前、教会の前辺りから毎時16分と46分に出ると言う。念の為に、博物館に入る前にバス停で時間をチェックした。 13:00頃、隣のウェリントン博物館に入った。イギリス軍総司令官ウェリントン公爵が本営として使用した建物だが、意外な程に小さい。 1階の受付兼お土産売り場を過ぎると、奥の部屋に関係者の肖像などが並んでいる。版画が多い。「会議は踊る」で知られるウィーン会議の図もあった。 「ウェリントンも使用した階段」(だから何だ。この家に逗留して階段を使わない方が余程変だ)を通って2階に上がると、まず目につくのが意味ありげな寝台。「アレグザンダー・ゴードン大佐がワーテルローの夜ここで死んだ」とある。飾り気のない手狭な寝台だ。
壁際の硝子ケースにはこれまた何とも異様なものが。「アックスブリッジ卿の木の義足」。むむ。確かウェリントンの姪の夫サマセットもこの会戦で腕をなくしたっけ。妻から贈られた結婚指輪を外すまで、腕を持ち去るなと頼んだ剛の者だったそうだ。(「ロンドン千夜一夜」原書房)
しかしながら、何と言ってもこの家で一番興味深いのは、ウェリントンが会戦前夜の1815年6月17日と当日18日の夜を過ごした部屋だ。寝台、テーブル、椅子など当時のものが置かれている。会戦の夜、彼はここで報告書を書き、町の名を取って戦いをワーテルローと名付けた。その報告書が掲載された6月22日のタイムズも掲示されていた。
他にはプロイセン軍の総司令官ブリュッヒャー元帥の版画が何点か。フランス軍参謀総長スルト元帥の肖像(何故かこの人の肖像画、見るたびに全部顔が違っている)、ワーテルローを去るナポレオンなどが特に印象に残っている。
ウーグモン農場の攻防戦を表した模型。窓からは綿の煙が上がっている。勿論、サーベルや銃の展示もある。 見学者は殆どいないので、ゆっくり見ることが出来た。道路に面した窓の外に、先程目印にした教会が見える。
2階の展示を見終わって階下に下りた。中庭を挟んだ別棟にも展示があるらしい。建物の外に出たところにトイレがある。 少々歩き疲れたので、中庭のベンチで休憩。そう言えば、先程2階からこの庭を見ていた。小さいながらも中央に通路がある奥長い庭だ。周囲を塀に囲まれているので日当たりはもうひとつのようだが、それでも庭は庭であって結構のんびりとした気分になる。 ここに座ってバスの時間を確認したり、景色を眺めていたりしたが、何気なく見過ごしていたベンチの前の石の塊が不意に気になり始めた。この質感、この形、もしかして、と近付くとやはり文字が刻まれていた。「この地に第40歩兵連隊のアーサー・ローリー・ヘイランド少佐眠る」。
やっぱりね。この石の下にか? そんな場所とは露知らずのどかに休憩していたよ。弁当を持っていたら開いていたところだ。そう言えば、庭の一番奥にこれまた怪しい3角柱を倒したような石材がある。大きな車止めみたいなものだが、これもそうか? ああ、これにも字が刻んである。右側は英語のようだが摩滅して読み辛い。反対側を見ると、こちらはフランス語のようだが、よりはっきりしていて名が読めた。これはエリス大佐の記念碑だった。後日ガイドブック(案内所で売っていた素朴なコピー本)で調べると、他にも幾つかの墓石とアックスブリッジ卿の足の記念碑(?)があったらしい。しかし、どこにあったのだろう。今、庭の写真をしげしげと眺めても、それらしいものはまるで写っていない。 売店で買った絵葉書に「ワーテルローの薔薇」なる可憐な白薔薇の写真があった。そう言えば、庭にしょぼしょぼとした薔薇の木があったような気がする。しまった。そうと知っていたら、実をひとつなりと失敬するべきだった。原種のようだから親と同じ花が咲くだろう。今度、ワーテルローに行く機会があったら、中庭の薔薇の実を忘れずに略奪すること、とひそかな誓いをたてる。
さて、別棟。こちらは建物がぐっと広く、近代的な博物館、とまではいかないが、今までの場所とは全く違って倉庫のような雰囲気だ。入ってまず目につくのは捕獲されたフランス軍の小型の砲。9ポンド砲だったような気がするが、素人なので全くの記憶違いかも知れない。無人だったこともあり、つい撫でてみる。砲口にちょいと手を突っ込んでみる。誰だってやる、よね。
軍服などの展示もあった。つい先日シャープの「ワーテルロー」を読み終えたばかりだったので、グリーンジャケットの軍服に注目したが、とんでもなく高い場所に展示されていて間近で見られないのが残念だった。
関係者の肖像と経歴などが張り出してあるが、肖像はモノクロ写真を拡大したものだ。アックスブリッジ卿の説明は「いつだってスタイル人間。彼の帽子は騎兵の最新ファッション」。はあ? いや、別に良いんだけどね。軍人としてはどうだったんだろうか。 |
ライオン像の丘(Butte
du Lion) 長居した博物館を出て、14:36頃、「ライオン像の丘」へ向かうバスに乗った。バスは料金前払い。確か40BFだった。紙幣しかなかったので、お釣りを貰うまでに手間取った。丘までの距離は5km程度、10分もかからなかったと思う。広々とした道の彼方に、写真でおなじみの非常に目立つ丘が見えてきた。
バスは街道に沿ってシャルルロワ方面へ南下していく。ライオン像の丘はバス停のある街道からやや離れているので、最後の何百mかは徒歩になる。晴れていて良かった。やたら埃っぽい道だとの印象が残っていたが、写真で見返すと一応舗装されている。街道から入ってすぐにワーテルローの名を冠した小さなレストラン兼ホテルがある。あとはただ、だだっ広い耕作地である。 左手、道から少し離れた所に1軒の農家があり、農業機械が作業中。風に乗って、刈り取られたばかりの草の匂いが漂ってきた。 ライオン像の丘の下には土産物店が集中していた。左手の建物に入ろうとすると、フランス軍の兵士の恰好をしたにーちゃんが、客と一緒にポーズを取り、女性カメラマンがせっせと写真を撮っている。フランスの、しかも兵卒なんぞと記念撮影などする気はないので、捕まらないように逃げた。でも、ウェリントンやブリュッヒャーだったら一緒に撮って貰ったよ、きっと。 中は種々の土産物で一杯だが気に入ったものがない。予算も準備して来たのに、残念だ。そうそう、カメラの電池。観光地なのであるかも知れないと期待して聞いてみたが、探しているリチウム電池はなかった。今のところは何とか写るので、当分頑張ってもらうしかない。 この建物を出て、隣のパノラマ館に入った。納屋の干し草置き場にでも上るかのような感じの木製の階段を上っていくと、丸い建物の内側の壁一面に戦闘場面が描かれている。たかだか壁上の絵であるが、360度ぐるりと切れ目なしに描かれている為か不思議な迫力がある。その中でもやはりさまになるのは、ネイ元帥の騎兵の突撃だ。
それ程広い建物ではない。他にはアジア系の熟年夫婦が1組いるだけだ。中国人だろうと思っていたら、目が合ったその男性、ぼそっと「日本人ですか」「はあ、そうです」「良かったらこれ説明して貰えませんか」。突然のことで面食らう。「え、良いですけど」。男性、妻を呼ぶ。「おーい、日本人がいた。説明して貰おう」 しかし、どこから話したら良いんだろう。どの程度の知識があるのかと念の為に聞いたが、殆ど知らないと言う。それも変だ。特に趣味もない熟年夫婦が、何でこんな場所に出現するのだ。 ともあれ、「その日は前日から雨模様でした」あたりから始めた。「戦闘の開始が遅れたのは、砲車が沈み込まぬように、ぬかるんだ地面が乾くのを待っていた為で」云々。全く、何を話したのやら。ネイ元帥の派手だが、軍事的には大馬鹿とされている騎兵の大突撃やら、騎兵を迎え撃つ歩兵の方陣の組み方やら思い付くまま話した。その間ずーっと奥さんがビデオで壁の絵を録画していたのだけど、話したことが録音されていたら厭だなあ。 出口の前に売店があった。建物の構造のせいで窓がないので、倉庫のように殺風景な場所だ。レジでは暇そうな女性が読書している。 ここで面白いものを見付けた。ナポレオンの元帥たちの肖像を描いたカードだ。現代の画家が描いたもののようで、画風もむしろ醜悪と言えるのだが、これは珍しい。ばら売りすると言うので、最初はひいきの元帥だけを選ぼうと思ったが、折角なのでナポレオン帝国時代の元帥全員を揃えることにした。レジにずらっと並べて重複していないか確認したのだが、実はそれ全部が一揃いで、余計な手間だったことが後でわかる。「元帥たちは全部で26人? それとも28人だった?」 売り場の人もはっきり覚えていなかったらしく、壁の見本を数えて「26人」。「じゃ、この26人とポニャトフスキ元帥だけあと1枚」。ポニャをひいきにしている折瀬凛氏へのお土産にするつもりだったが、在庫を調べるとこれが最後の1組と判明、結局凛さんの分は買えなかった。 ところで、この話には後日談がある。後で確認すると、この肖像画シリーズ、ペリグノン元帥が2枚ある。なのに全部で26枚とは? 改めて調べるとセリュリエ元帥がなかったのだ。と言う訳で折角の元帥コレクション、不完全なものになってしまった。 次に向かったのは映画館。最初の建物の奥の階段教室のような部屋でミニ映画を上映するらしいが、何だかがらんとして殺風景だ。この部屋じゃないのだろうか。先に入ったカップルが奥のドアを開けて先に進むのでついていった。ここでは既に何か上映していたが、子供向きの映画でワーテルローとは無関係のようだ。戻ろうと思ったら、このドア、こちら側に取っ手がなくて、開けることが出来ない。困った、と思いきや、先のカップルはドアの下方の隙間に手を差し入れて器用に開いてしまった。先の部屋に座って待つうち、他にも何人か客が来た。程なく明かりが落ち、映画が始まった。 ワーテルローの会戦の展開を映像と音楽でづづったものだ。ウェリントン登場の場面がエルガーの「威風堂々」なのは妥当な線だとしても、ナポレオンが「断頭台への行進」(ベルリオーズ「幻想交響曲」)とは、選曲者、なかなか大した趣味をしているぞ。ブリュッヒャーの曲が何だかわからなかったのは残念だ。 ここを出ていよいよ「ライオン像の丘」(Butte du Lion)に登ることにした。ここに登るのは有料で、登り口は例の土産物屋の中にある。
下から見上げた時はそれ程でもないように思えるが、その険しさに驚くのは実際に登り始めてからだ。一直線に登るせいもあって、そこいらの教会の塔より余程息が切れる。ようやく上に着いた時には正直言ってもうへとへとだ。心臓や足が弱い人は止めておいた方が無難だ。 しかし、苦労して登っただけのことはあって、ここから見渡す景色は確かに素晴らしい。ただ、丘の下からは遠すぎて良く見えないライオン像、ここまで来ると近すぎて何にも見えないのだな。変な記念碑だよ、全く。これでは彫刻家も不本意に違いない。 先程の夫婦が先に来ていて、その健脚ぶりに驚いた。ここで再び、辺りの景色を眺めつつ解説の続きをすることになった。買ってきた両軍の布陣図を開いたら、風が強くてあおられて大変。
この「ライオン像の丘」は、オランダ、ベルギー(当時はオランダ領)軍の指揮官、オラニエ公ウィレム(後のオランダ王ウィレム2世)が名誉の戦傷をした場所に築かれた人工の丘だが、このせいでイギリス軍陣地の土地が削られ、地形が変わってしまったと言う何とも凶悪な記念碑である。 イギリス、オランダ軍布陣の右翼に当たるこの丘に立つと、自然と反フランス連合軍の位置から戦局を見ることになる。フランス人だったら、ここに立つのは面白くないだろうな。それに、フランス陣営側から連合軍側を望める展望台があれば更に興味深いと思うけどな。 ワーテルローと聞いてまず思い浮かべるのは、両軍がそれぞれ布陣したふたつの丘だが、期待に反して、それらしい隆起は見当たらない。(ひょっとしてあんたが削ってしまったのか、オラニエ公?) 見渡す限り真っ平、とまではいかないが、殆ど平坦と言って良い土地が延々と続く。耕作地の緑と収穫後の裸地の赤がモザイク模様を描き出している。この前方正面の広大な土地にフランス軍が布陣したのだ。
左手方向、真っすぐ南に伸びているのは、先程のバス通り、ブリュッセルとシャルルロワを結ぶ街道だ。あの街道に沿って、イギリス軍は南下し、フランス軍は北上してきた。その手前、すぐ近くに見える白い農場の周囲で耕作機械が働いている。ここに来て初めてわかった。先程、傍らを通過したあの農場こそが、ワーテルローの戦いの要のひとつ、ラ・エイ・サント(la Haie-Sainte)だった。
その左手、先程の4つ辻の左右に、巨大な門柱のように並ぶのはベルギーとハノーファー軍の記念碑。その彼方、街道の向こうの木立に囲まれた建物がパパロット(Papelotte)農場。やはり、攻防戦の舞台となった。あの日の午後、この方向から到着した援軍プロイセン軍が、連合軍の勝利を決定付けた。 ウーグモン(Hougoumont)の農場がなかなか確認出来なかったが、右手斜め前方にある木立に半ば隠された建物がそうだと思う。丘にある布陣図を見て気付いたのだけど、ウーグモンではなくて単にグモン(Goumont)と書いてある。これ、何語なんだろう。
タイマーをセットして写真を撮ろうとしていたカップルがいたので、シャッターを押そうかと申し出たら、逆にこちらの写真を撮ってくれた。背景はラ・エイ・サント農場。 初めのうちは結構人がいたが、長居をしているうちに夫婦も去り、いつの間にか完全に無人状態。別に何をする訳でもなく、ただ台座の上に座って、辺りの景色を眺めながら絵葉書を書いた。 「ワーテルロー、ライオン像の丘にて。 9/17、16:30。地平線が少し曇っているが、良い天気だ。日差しが強く、また丘の上は風が強い。眼下に広がるワーテルローの戦場跡。左手すぐ近くに、ラ・エイ・サントの白い建物が。現在も人が住んでいるらしくて、トラクターが働いていた。右手前方、木立に囲まれているのが、ウーグモンのようだ。もう少し、起伏がある土地を想像していたのに、随分と広々としているとの気がする。ここに来る途中、トラクターが働いた後で、刈り草の匂いがしていた。あの日、踏み潰された草もこんな匂いがしていたのだろうか。右手、ウーグモンと思しき場所の手前に馬の放牧が見える」 丘の南側は日当たりも良く、風も当たらず、結構快適だが、北側に回ると猛烈に吹き付ける風にあおられ、うかうかしていると吹き飛ばされそうだ。がっしゃーんととんでもない音がしたので何事かと思ったら、大型のごみ箱が転倒したのだった。 17:15頃まで無人の丘に座っていたが、もうそろそろ帰った方が良い。階段を降り始めたが、風が強くて危険を感じる程だ。年配の一行が登ってゆくのと擦れ違った。大丈夫かなー、あの人たち。 先程の建物に戻り、もう一度土産物コーナーを見て回った。アメリカン・コミックのような感じの「ワーテルロー」漫画がある。本を少しずつずらして塔のように積み上げたものが3、4カ所、なかなか結構芸術的だ。英語版があるかも、と期待したが、残念なことにどの本もフランス語だった。なかなか渋いブリュッヒャー元帥のアップがあったので買うことにした。450BF。ちょっと珍しい記念品ではないだろうか。
さて、先程の単調な道を戻って街道へと戻る。道のすぐ横にゴードン記念碑が立っているのが見えた。近くまで行こうと思ったが、車の通行が激しくて僅か数mの距離だが物騒で近付けない。ベルギー人の運転モラルの程は不明だが、フランス語を話している以上、あまり信用しないに越したことはない。(凄い偏見。)無理に近付こうとして車にはねられ、三面記事を賑わす気はないので残念だが見送ることにした。 17:40頃、バス停に着いた。ライオン像への脇道に少し入ったところで、シャルルロワ方面から来たバスが止まるには変な位置のような気がしたが、目につくところには他にバス停がない。ひとりいた先客は車の友人を待っていたらしく、先に行ってしまった。間もなくバスが来たが、ワーテルローの町の方向と尋ねると、ここではないとのこと。 (注)ワーテルローの町と、ワーテルローの名で呼ばれている戦場とは全くの別物である。紛らわしいとの苦情があれば、ウェリントン公爵宛に出して欲しい。「ロンドン1番地アプスリーハウス内、ウェリントン公爵」で届く筈だ。ネルソン提督と違ってライオンの門番たちはいないので、ちゃんと配達して貰えると思う。 教えられた方向を見ると、バス停は街道をワーテルロー方面に少し寄ったところにあった。そちらに行こうとしているうち、背後からやって来たバスに追い抜かれてしまった。間に合わないかと思ったが、下車した人が気付いて、運転手に待つようにと合図をしてくれた。感謝。間に合った。時間は17:50頃。 最初、ワーテルローで下りるつもりで40BFの切符を買ってから気付いた。このバス、ブリュッセルまで行くのでは? 尋ねると、更に40BFだと言う。最初はワーテルローで宿を探すつもりだったが、明日、ロンドンに向かう時のことを考えたら、今日のうちにブリュッセルへ帰った方が良い。 走り出して程なく、なんだかみすぼらしい建物が見えてきた。Mon-Saint-Jean(モン・サン・ジャン)の標識は確かに覚えがある。後で調べたら、当時、野戦病院として使われた農場だった。今なお現役の建物として使われているようだった。 |
ワーテルローからブリュッセルへ
夕方のせいか、道は渋滞していて、進むのに時間がかかる。車内も混んでいるし、学校帰りの子供も多い。殆ど地元の普通の住人のようだ。 町の中心部に入った頃から、バスは徐々にすいてきた。市街図を出して、標識と見比べるが、さっぱり見当がつかない。中央駅のロッカーに荷物かあるし、まずはそこに行かなければ。 最終的にバスが止まった場所は町の中央には違いないが、何だか閑散として殺風景な場所だった。中央駅は、と聞くと、この先の方だと言う。が、見渡してもそれらしい建物は見えない。本当にこの方向に進んで良いものか。疑わしい気分で見回すと、周囲はやたらと広い。四方八方無限に広がる、だだっ広い、くたびれた石の町のど真ん中。なのに、この殺風景さは何事だ。尋ねようにも人はいない。ゴーストタウンのようだ。 珍しく人の姿を見たので中央駅の場所を尋ねた。彼が言ったのか、私が言ったのかわからないが、この時、Midiとの言葉が出た。ブリュッセルの地名は、フランス語と、ドイツ語に近いフラマン語の二重表記だと言うことが頭にあった。Midi=中=Centraleだろう。そう、私はMidiに行きたいんです。彼はバスが通ってきた方向を指さす。え、こっち? まるで反対の方向じゃないか。念の為に歩いたらどのくらいかと尋ねると、10分程度と言うが、どうもその時間では着けそうにない。こちらが疑わしげな顔をしたのがわかったのか、もう少しあるかも、と付け加える。まあ良い。方向さえわかれば、そのうち着くさ。 で、てくてくと歩き出した。時間は18:50頃か。辺りの光は徐々に夕方っぽくなってきた。相変わらず人影はまばら。最初は単に閑散としていた辺りの景色、それに加えて心なしかボロっちくなってきたようだ。でも、それと共に少しは賑やかになってきたような気がしないでもない。何だか怪しいぞ、この辺り。 やがて結構交通量の多い道路と交差した。このまま先に行って良いのか。それとも曲がるのだろうか。ふと見ると、ある店の前でアラブ系に見える年配の男性ふたりが煙草をふかしていた。彼らに尋ねると、前方の高架を示して、すぐそこだと教えてくれた。成程、あれは確かに駅だ。元気を出して真っすぐ先に進む。 しかし、何だか汚い場所だ。駅に近付くにつれ、辺りには異様な臭いが立ち込めてきた。紛れもないアンモニア臭だけでなく、辺りはごみが散乱し、恐ろしいまでの荒廃ぶりだ。更にどうやらこちらは入り口ではないらしく、行く手は低い柵に囲まれていて、通ってはいけないらしい。が、この向こうに紛れもない駅があるとわかっているのに遠回りする気などさらさらない。強引に柵をまたいで前進し、また柵に出くわしたのでそれも越える。ようやく人の姿が増えてきて、徐々に人間の徘徊するにふさわしい場所らしくなってきた。さあ、ロッカーで荷物を出して、宿泊案内所の窓口に行って、と。 ところがである。何か変なのだ、この駅。さっき荷物を預けたロッカーコーナーが見当たらない。まさかそんな筈は、とうろうろ探して歩いたが、ついにお手上げ。目についた鉄道の窓口で尋ねることにした。鍵を見せて、「このロッカーが見付からないんです」。応ずるは、外国ドラマの悪徳警官のようなでっぷりしたおじさん。鍵を受け取り、電話をかけて何やら話している。その仕草から見て、鍵の特徴を説明しているようだ。やがて、答えが出たと見え、こちらに向かってゾンビのように抑揚のない英語で教えてくれた。「あなたは間違った駅にいる。これはCentrale駅の鍵である。そしてここはMidi駅である」「Midi?」「Zuid」と彼は言い直す。フラマン語はドイツ語と似ている。ドイツ語でS dは「南」だ。え、つまりここって「South Station?」。そうだ、と駅員が頷く。 そうだったのか。その瞬間、今までの疑問が一気に解けた。バスは確かにCentrale駅の近くに着いていたのだ。なまじ駅名の二重標記が頭にあった為、CentraleとMidiを同一のものと思い込んだのだ。それにしても、何でMidiが南なんだ? フランス語って何て凶悪な言葉なんだろう、とあらゆる機会を捕えてフランスをこき下ろすドイツびいきの私。 でもそれさえわかれば、汽車で隣の駅に移動することが出来る。が、切符売り場がわからない。まあ、乗場に行く前にはあるさ、と思ったが、なかった。改札もないので、結局、そのまま切符を持たずに来た列車に飛び乗って中央駅まで行ってしまった。乗ったのは19:21発のルクセンブルク行きの汽車。隣町程度の距離ではあるが一応は国際列車だ。良く考えると、これは立派な無賃乗車である。一駅なので、あっと言う間だ。列車は地下に滑り込み、先程の異様な悪臭が再び辺りに立ち込めた。「ああ、この臭いは間違いない」と大いに安心する。それにしても、Centraleにせよ、Midiにせよ、ブリュッセルの駅は個性的に臭かった。今思うと、北(Nord)駅も同様に臭かったのか、確かめられなかったことが心残りである。 さて、見覚えのある駅に着いてほっと一安心。しかし、まだ宿の手配はこれからだった。荷物を取り出し、昼間目を付けておいた旅行者案内所に行くと、大変な行列が出来ていた。バックパッカーの若者20人くらいがずらりと並んでいるので恐れをなしたが、ひとりが中から出てきて何事か言うと、みんな荷物を担いでぞろぞろと移動していった。全員で1グループだったのだ。ああ驚いた。渡り鳥の群れのような若者たちであった。 この案内所はブリュッセルのみでなく、ロンドンを初めとした各都市の予約も扱っているらしいが、日本の地方都市にあるような雰囲気の小さな案内所で親しみ易い。係は若い女性で、親切に応対してくれたが、何だか時々邪魔が入った。ティーンエージャーの少年が何か聞きにきて、慌ただしく立ち去った。話している途中、図々しいアジア系の男が割り込んできてとうとうとまくし立てたり、ドイツやイギリスではお目にかかったことのないようなマナーに出くわす。 都心に安いホテルを探すのは難しい、と彼女は言う。高級なところばかりで。ほら、国際会議があるでしょう。それでも、そこはプロ。手際良く話が進む。2000BFのホテルがあるけれど、どう? と言われてもぴんと来ない。電卓を出して計算するが、彼女が打ち間違えたようで、どう見ても異様な数字になった。他にも人が待っているのに、焦らず騒がずじっくり応対してくれるのは、有り難いが何だか済まない気もする。ここに予約を頼んだ。宿泊費はホテルではなく、案内所に現金で払うのだった。 ホテルまでの地下鉄を教えてくれたが、既に日が暮れていたし、荷物はあるし、迷うのは厭だし、と言う訳でタクシーを呼んで貰うことにした。料金は300BF、運転手がここまで呼びに来てくれると言う。 案内所の前で待つことしばし、運転手が迎えに来た。小さなくたびれた感じの車だ。どこに座ったら良いのかわからないので、助手席に座る。窓の外の景色はなかなかの眺めだが、ブリュッセルに関する予備知識が殆どないので、何が何やらさっぱりわからない。一際見事な建物の前でタクシーは方向を変えた。後で地図を見ると、どうやらそれが最高裁判所であったようだ。 ホテルに着くと、運転手は手早く荷物を降ろしてくれ、約束どおり300BFだと言う。メーターがあったかどうか気付かなかったが、ひょっとして均一料金で客を運ぶ契約が出来ているのかも知れない。別に用意しておいた25BFをチップとして渡した。 大通りから少し入った場所にあるDe Boeck's Hotelは、少々古びてなかなか優雅な、あるいは零落した雰囲気の建物だった。大理石の階段にシャンデリア、天井まで届く丈の高い白いドア、等々。エレベーターまである。尤も、私は使わなかったが。 フロントはホールの隅の小さなコーナーだ。案内所で貰った用紙を渡し、部屋の鍵を受け取った。階段の上、プライベートと書いたドアを過ぎて、その奥だと言う。どう見ても召使用の裏階段としか見えない通路を抜けると、その奥に屋根裏部屋に続くような階段があり、そこを上り詰めたところが問題の部屋、22号室だった。階段の上には余地が全くなく、ドアを開けると外に立っている人は必ず転げ落ちると言う凄い構造になっている。何とも怪しい隠し部屋としか思えないが、中は普通で、シャワーとトイレの他、TVと電話までついているのが意外だ。ごく狭く、多少ぼろっちい感じではあるが、ベッドはダブルサイズでゆったりとしている。
荷物を置いて、食べ物を探しに出ようとしたら、鍵を置いていってくれと言う。ああ、ここはホテルだった。面倒ではあるが、少なくとも表のドアが開けられず悪戦苦闘する心配はない訳だ。(部屋のドアに関してはまた別の問題となる。)この際なので、フロントマンにユーロスターが発着する南駅までの行き方を尋ねた。中央駅から南駅までの歩き方はわかったが、ここから南駅まではまだ謎の世界だ。ホテルの名刺に描いてくれた地図を持って外出。 辺りは既に暗い。夜のフランス語圏で迷子になったら厭なので、道を確かめながら歩いた。ホテルの周辺は閑静だが、少し歩くと市電が走っている賑やかな大通り、Avenue Louiseに出た。ブティックもあれば菓子店もある。レストランも色々とあったが、外食するのが億劫になり、宿の方へと引き返した。 途中にこうこうと電気をつけた個人商店があった。手前の方に果物やパンなどの食料品、奥には日用品なども備えた便利な店だ。経営者も客もアラブか中近東系人らしい。電池は単3や単4はあるが、必要な電池はここにもなかった。 アイスクリームチョコバーとサモサ、いちじく、りんごを買って全部で125BF。サモサは「物凄く辛いが、大丈夫か」と念を押されたので、どんなに凄いものかと用心しいしい食べたが、結構おいしかった。辛かったのは本当で、アーヘンから持ってきた水道水が殆どなくなった。エヴィアンの空き瓶に詰めてきたアーヘンの水は、エヴィアンよりもずっとまともな味がした。いちじくは甘くなかったが、アイスクリームは大層美味。マグナムと言うどこ製かわからない品。りんごは日本まで持って帰った。 明日は早々にイギリスヘ向かうことにした。多少はブリュッセル市内を見学しようかとも思ったが、やはりここは英語圏とドイツ語圏の間のブラックボックス、いやむしろブラックホール。何となく落ち着かない。言葉の通じる場所へと脱出したくなった。ロンドンに着いたら、余程遅い時間でない限り、そのままウィンチェスターに向かおう。 ユーロスターの時間を確かめた。2時間前に手続きする必要があるので、10:31の便が妥当だろう。ロンドン着は12:43。それだけ決めて22:10頃就寝した。
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